久米美術館
久米美術館は、歴史家・久米邦武とその長男で洋画家の久米桂一郎を記念して、二人のゆかりの地、目黒駅前に昭和57年10月に開館しました。
通常は久米父子の資料や作品を併せて展示していますが、久米桂一郎の師であったラファエル・コランや友人・黒田清輝などの作品を盛り込んだ展示や、久米・ 黒田の東京美術学校(現・東京芸術大学)の教え子たちの作品展なども順次行っています。また、様々なテーマからなる久米邦武の特別展も開催しています。
久米美術館は山手線目黒駅の駅前の喧騒を忘れさせてくれる静かで落ち着いた雰囲気の中にあります。明治時代の先人の足跡を辿るにも、また静謐な作品の中で一息付くにも適した環境といえましょう。どうぞ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
美術館の由来
現在久米美術館のある目黒駅前の地と久米家との関わりは、明治10年代に久米邦武が『米欧回覧実記』編修の功により下賜された500円を基に一帯の土地を購入したことに始まります。富士の見晴らしが良いことを好んだという邦武は、ここを京橋の本邸とは別に「林間の山荘」として利用していましたが、明治30年代には目黒に本拠を移し、西洋野菜の試作なども行いました。また、大正に入ると桂一郎も同居するようになりました。
江戸~明治期の目黒は、落語「目黒のさんま」からもわかるように、街の喧騒とは無縁の野趣あふれる土地柄であったようです。その様子は、富士山の眺めの素晴らしい景勝地として歌川広重の名所図絵などに数多く取り上げられています。
昭和43年、目黒通り拡張のため久米家は移転、旧久米家跡の一角に現在の久米ビルを建設し、昭和57年久米美術館が設けられました。現在の館長は邦武の曾孫・桂一郎の孫にあたります。
久米邦武について
久米邦武は天保10年、佐賀に生まれ、藩校弘道館や昌平坂学問所で学んだ後、藩主鍋島直正の近習となりました。維新後には岩倉使節団の一員として欧米12ヵ国を視察し、報告書『米欧回覧実記』を編修します。
その後は、太政官修史館での編修事業や帝国大学での講義にあたりましたが、明治25年、論文「神道は祭天の古俗」が神道家などの反発を招き事件へと発展、 教授職を去ります。以降は、同郷の旧友・大隈重信の東京専門学校(現・早稲田大学)で教職をとりつつ、学究生活に入りました。
昭和6年に満91歳で亡くなるまで、一貫して実証主義の歴史学者としての立場を貫きながら、科学技術への関心や能楽の研究・復興にあたるなど、幅広い視野と深い探究心を兼ね備えた学者として知られています。
★久米邦武(1839~1931)
年表
1839年 | 佐賀城下八幡小路に生まれる。 |
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1854年 | 佐賀藩々校弘道館に入る。 |
1863年 | 昌平坂学問所(昌平黌)書生寮に入学。 |
1864年 | 昌平坂学問所を退学し、鍋島直正の近習となる。 |
1868年 | 藩校弘道館の教諭となる。 |
1869年 | 府藩県制に伴い、佐賀県権大属となる。 |
1871年 | 上京。明治新政府の権少外史に任じられ、特命全権大使岩倉具視に随い、欧米諸国を視察する。 |
1878年 | 岩倉使節団の報告書『米欧回覧実記』全5冊(復刻版宗高書房、岩波文庫)を刊行する。 |
1879年 | 編修官を任じられ、修史館において明治21年まで編修に従事する。 |
1888年 | 帝国大学文科大学教授となる。 |
1890年 | 『稿本国史眼』全7冊を刊行する。 |
1891年 | 「神道は祭天の古俗」を『史学会雑誌』に発表。 |
1892年 | 『史海』に転載された「神道は祭天の古俗」が神道家などから攻撃を受け、帝国大学教授を依願免官となる。 |
1899年 | 東京専門学校(現・早稲田大学)で講じつつ、以後も『古文書学講義』『日本古代史』『奈良朝史』など次々と著作を発表する。 |
1931年 | 2月24日没。 |
久米桂一郎について
久米桂一郎は、黒田清輝と共に明るい外光派の画風を広げ、明治洋画壇の指導的役割を果たしました。また中期以降は美術行政家、教育者としての功績を多くのこしました。
慶応2年、久米邦武の長男として佐賀に生まれました。少年期に、内国勧業博覧会で西洋画を見学して美術に関心を持つようになり、明治16年より本格的な西洋画学習を開始します。明治19年、20歳でパリに留学、ラファエル・コランに師事して基礎的な人体デッサンや美術解剖学などを学ぶ一方、同じく留学生であった黒田清輝と出会い、終生続くことになる友情を結びました。
帰国後は、日本に本格的な西洋美術を普及させるべく、黒田と共に洋画団体・白馬会を結成したり、東京美術学校(現・東京藝術大学)に新設された西洋画科で教壇に立つなどの活躍を見せましたが、後年は絵画制作から遠ざかり、美術行政・教育の場で遺憾なく力を発揮して日本洋画界の礎を築きました。
★久米桂一郎(1866~1934)
年表
1866年 | 歴史学者久米邦武の長子として、佐賀城下八幡小路に生まれる。 |
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1874年 | 上京。 |
1881年 | 第2回内国勧業博覧会のコンテ画を見て洋画研究の念を起こし、その後藤雅三に就く。 |
1886年 | 渡仏し、ラファエル・コランに師事、同門の黒田清輝と終生の交友を結ぶ。 |
1892年 | 前年同様、ブルターニュ地方のブレア島に赴き、約5ヶ月滞在。「林檎拾い」「晩秋」の制作を始める。 |
1893年 | 帰国。黒田と京都に遊び、「河原」「清水寺」「清水秋景図」等を制作する。 |
1894年 | 画塾天真道場を黒田と起こし、清新な洋画教育を行なう。 |
1896年 | 黒田ら同志と共に、白馬会を設立。また、この年開設された東京美術学校西洋画科の授業を嘱託され、美術解剖学、考古学の講義を開始する。 |
1897年 | 1895年に引き続き、裸体画批判再燃に対し、論考「裸体画につきて」(美術評論1,3)を発表する。 |
1898年 | 東京美術学校教授となる。 |
1900年 | パリ万国博覧会に油絵「東京付近ノ冬夕」「残曛」「十月ノ陽光」3点を出品し、褒状を受ける。 |
1922年 | 帝国美術院幹事に任命される。 |
1934年 | 7月27日没。 |